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だんぴあ丸の尾道丸救出劇!魔の海域での死闘44時間

人類史上最悪の海難事故と言われる豪華客船タイタニック号の沈没から約1世紀が経つ。

その後、安全な航行を担保し確保するための様々な技術が開発された…にも関わらず21世紀になった現代でも悲惨な海難事故は後を絶つことはない。
記憶に新しいところでは韓国観梅島(クヮンメド)沖海上で転覆・沈没したセウォル号事故がある。

そして今年も4月18日深夜から19日未明にかけリビア沖の地中海で多数の難民を乗せて欧州に向かっていた密航船が転覆し800人以上の死亡者が確認されたのだ。
事故原因の多くは船舶自体の違法改造や過積載に起因するのだが、時として船長の判断ミスがさらなる悲劇を産んでしまうことも多々あるのだ。

しかし今から35年前、世界の海運界にとってお手本となるとまで称賛され今もなお世界中で語り継がれる伝説的救助劇がひとりの日本人船長の元、行われていた!






尾道丸の遭難


時は1980年12月30日、シベリアの大寒気団が南下、異常発達した低気圧の通過で千葉県野島沖の太平洋は瞬間平均風速25m以上の暴風雨が吹き荒れていた。

そんな中、尾道丸(全長226.4m、33,833トン)は野島崎東南東沖合約800海里(約1,500km)の荒れ狂う海原を香川県坂出港に向けて航行していた。

だが船首方向からウオーター・ハンマーといわれる強力なうねりをまともに受け、スラミングという現象により波高20mの大波に船首部分を捥ぎ取られ脱落し航行不能となってしまったのだ。

※スラミングとは船が前から波を受けて航海しているとき、船体の運動が非常に大きくなると、船首の船底が空中に飛び出し、次の一瞬に落下した船首部が海面に叩き付けられる現象。(船外機関連用語集より引用)

魔の海域


当時、千葉県野崎沖は、小笠原諸島、グアムを結んだ三角形海域の一角を成し海難事故が相次いだことから“低気圧の墓場”と海の男たちから恐れられていたのだが、船舶のみならず航空機も謎の失踪をすることから元祖“魔の海域”であるバーミューダトライアングルに準えドラゴントライアングルとも呼ばれていた。

実は尾道丸が航行不能になる2日前の28日この“魔の海域”でユーゴスラビア籍の貨物船ドナウ号が洋上から第一船倉が浸水したとの無線連絡を最後に行方不明になっており、翌29日にはインドネシア籍の貨物船ガルサ・ティーア号が沈没、6名の行方不明者を出していたのだ。

尾道丸のSOSとだんぴあ丸の救助


話を元に戻そう。
尾道丸のSOSはちょうどその頃前方を航行していた鉱石運搬船だんぴあ丸が受信した。

この荒天下、すでに大型船が2隻も遭難しており普通なら他船の救助など考え及ぶ状況ではなかったが、レーダーで尾道丸の位置を確認した尾崎船長はエンジンコントロールルームに
「ただちに救助に向かへ!」
と指示を出したのだ。

だが急速に発達する低気圧の中を尾道丸に向けて突っ切るだんぴあ丸にもダム壁にも似た巨大な荒波は容赦しなかった。
海中に突っ込む船首、間欠泉の如く舞い上がる波しぶき、沈没せずに航行すること自体が奇跡的な状況だった。

そんな状況であっても尾崎船長は冷静を保ちながら適切な指示を出していた。
その結果、無線室は尾道丸に対し積み荷、数量、船長名、乗組員数等を問い合わせ、尾道丸が33,833総tの貨物船であることや乗組員が29人いることなどを把握。
また石炭52,000tを積載して香川県の坂出港へ航行中に遭難したことも判明した。

当初確認した時点では船首がついていたこともあり即沈没する恐れはなかったのだが、突然尾道丸から
「船首が切れたので退船準備を始める。至急救助を頼む!」
という沈痛な内容の無線が届いた。

人間は遭難し自らの死と背中合わせになったとき正常な判断を下すことは不可能に近いはずだ。
そしてこのような大荒れの状態で船を脱出しても瞬時に海の藻屑となり消え去ってしまうことは火を見るより明らかだった。
だが落ち着いていた尾崎船長は積荷の石炭に注目していたのだ。
実は石炭は浸水率が小さく故に海水の浸入を長く防ぐため石炭を積んでいる船は沈没しにくいのだ。
彼はそのことを尾道丸に伝えると同時に乗組員がパニックに陥らないようにするためできる限り彼らの恐怖心を取り除くことに努めた。

18時半過ぎにだんぴあ丸はようやく尾道丸を双眼鏡で目視できる距離まで近づいた。
季節は真冬である。周りは漆黒の闇に包まれていたがその暗闇の向こうに、デッキライトに照らし出された尾道丸の船体をはっきり捉えることができたのだ。
だがまだ波が荒く救助作業に入ることなど到底できなかった。
実際に尾道丸の乗務員を救助するまでまだ一日半以上もかかることなどその時点では知る由もなかったのだが…






尾道丸乗組員の極限の精神状態


翌日12月31日になっても悪天候は変わらなかった。
尾道丸の船首は完全に折れ曲がり、付近の海面に黒く流れるような模様がはっきり見えていた。
これは船首部に打ち込まれた荒波により破損した船体から石炭が流出しているのだ。

尾道丸が沈没寸前であり一刻の猶予もないことを物語っている証拠だった。
尾道丸の乗組員たちは一睡もしていないうえに恐怖は限界を超えていることも容易に想像できた。

そこで尾崎船長は意を決し、停船していただんぴあ丸を尾道丸の方に徐々に動かすよう指示を出したのだ。

だがそれは大いなる危険を伴うことになることも船長は理解していた。
そして両船間の距離がわずか500mになったとき、右舷からの巨大波によってだんぴあ丸の船体は大きく揺れた。

「これ以上は近づけない、だが恐怖心に苛まれている尾道丸の乗組員になんと説明すればいいのだ?」
そう悩んだ尾崎船長の元へ尾道丸からもう一日待ちましょうという連絡が入ったのだ。
巨大波で傾いただんぴあ丸を見た乗組員たちが我に返った瞬間であったのだろう。

劇的な救助劇


そして1981年1月1日午前4時、救出劇は始まった。
尾崎船長は石炭が沈みにくいという事実同様、冬の北半球では強い季節風が4日以上続くことが殆どないということも知っていた。

そしてそれを踏まえ救出のタイミングを計っていたのだ。
だから嵐は収まりかけていたとはいえ風速17mの中、今しかないというタイミングで救出を強行したのだ。

ひとつ間違えば犠牲者が出てしまう可能性がある中、たった3隻のライフラフトでの全員の救出はまさに奇跡!
知識と冷静な判断、それに完璧なチームワークがあったからこそ成し遂げられた神業であったとしか考えられない。

ライフラフトを波が打ち付けることのないだんぴあ丸の左舷に停泊させ波の振幅に合わせてライフラフトが一番高い地点に到達したとき左舷に設置したライフネットにひとりずつ飛び乗らせたのだ。

そして全員が救助されたとき甲板上に出てきた尾崎船長に最後に救助された尾道丸の北浜船長が抱きついたそうだ。
きっと自分の命と引き換えに乗組員の命を助けようと思っていたに違いない北浜船長にとって尾崎船長はその船長としての重みを誰よりも理解してくれた“戦友”だったのかもしれない。

だんぴあ丸がSOSを受信してから44時間。すさまじい死闘だったが、それは同時に魔の海に勝った瞬間でもあった。

その後尾道丸の乗組員たちは自分達の着ていた服が乾くと、借りていた衣類をきれいに洗濯してだんぴあ丸の乗組員たちに返却したそうだ。
そして海の男達は戦い抜き勝ち取った命とかけがえのない友情と共に新春の太平洋を鹿島港に向けて走り出した。






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